川島先生、お久しぶりです。この間、私が通う教会に私の筍長だったAさんが訪問して来たので、久々に投稿させてください。
私の教会で、周辺の教会の牧師によって組織される防災ネットワークの会合がありまして、Aさんは彼の牧師と共にやって来た訳です。彼と話しましたが、「私もヨハンに騙されていた」と仰っていて、ヨハンの問題の根深さを思い知らされました。彼はリーダーとして、韓国人宣教師と平信徒とのパイプ役として意気揚々と仕えていたはずが、とても意外に思いましたね。Aさんが通う前からその教会に私の友人がいて、彼が言うにはその教会の教職者達は、「本当に、Aさんは騙されたと思っているのか?」と不信の念を抱いているとの事です。
私がAさんに「ヨハン早稲田教会は、そもそも私を育てられなかった。」と言ったら、彼は平謝りで頭を下げていました。ヨハンの担任牧師だった金圭東氏は、教会を大きく育てたいと考えていたには違いないですが、集まって来る若い男女を大切に一々愛して仕えてとやって行くと時間がかかり過ぎて面倒と思ったのだと思います。それで、最初にラブシャワーをいっぱい浴びさせて気持ち良くさせて、洗礼を授けさせたら暴力をも厭わない感じでコントロールしようとしたのでしょう。ヨハンで弟子訓練と言われるシステムは勢いで信徒にさせる感じで、とにかくインスタントに簡単に信徒を仕立て上げるところに特徴があると思っています。
でも、幾らカップラーメンのようにインスタントに信徒を作れると言っても、所詮はインスタントです。手抜き工事ばかりやっていると、いつか大きなツケを払うことになります。それが川島先生の掲示板での苦情やら2ちゃんねるでの悪戯書きやらをされる今に繋がっているのです。普通の教会では、先ずあり得ません。聖書では、「神は愛である」とか「最も大いなるものは愛」と教えられているにも関わらず、ヨハンでは叱る事に力点が置かれていたように感じます。金圭東氏の著書「主は荒れ野で働かれる」によると、「人は心の中が揺さぶられるまで本当に変わらない」とありますけど、暴力的に厳しく若者を育てても愛を示さないと、愛とは無関係の暴力に終始する訳で、ヨハンを離れてから二度と教会に足を踏み入れまいと思う若者を量産している現在に至るのです。
ヨハンは人々にバプテスマを授けて、新生された信徒をたくさん生み出しましたが、肝心の子育てを忘れています。いつも、子育てが順調に行くとは限りません。目の前に、自分の赤ちゃんがオギャーオギャーと泣いているとして、親であるヨハンのリーダー達がすべき事は、赤ちゃんをあやす事でしょう。自分の大切な子供だからこそ、愛情を込めて忍耐強く子供と向き合うのが本来の子育てです。それに対して、ヨハンの大半のリーダーは子供を産んだは良いが、目の前のオギャーオギャーと泣く赤ちゃんに対して「どうしたら良いの?」としか思わない未熟な親に似ています。なかなか泣き止まないから、暴力的に泣き止ませるしか手を思いつかない。そうして、益々問題を大きくして行く事になって行ったのです。
金圭東氏は、ヨハン早稲田教会をメガチャーチにしたいと野望を抱いて、先ずは信徒を囲い込む事を選んだ。それが正体隠しの伝道となって表れて、とにかく世間慣れしていない未熟な若者を多く集める結果となったのでしょう。それから、十分の一献金の名の下に、若者達から高額なお金を払わせましたね。まさしく、「見える形を重んじて、見えない中身を軽んじた金圭東氏の牧会的姿勢」と言えましょう。厳しく取り立てて、信徒が消耗して教会を離れるかもしれないし、教会が長持ちしなくなるのかもしれないのに、金圭東氏は見える形を重んじた結果、失望した信徒を大量生産したと言わざるを得ません。
金圭東氏のメッセージは日本人を見下して、韓国人は神様に選ばれた民族だと言うような内容が多かったです。徹底的に聖書を調べて、福音を語り伝えるのとは違う。自分の主張に、申し訳ない程度で聖書の知識をくっ付けているに過ぎないです。信仰・希望・愛と言った「見えない中身」を重視しない結果、金圭東氏のメッセージに反感を持ってヨハンを辞めて行った信徒は多くいると聞いています。純粋な福音により信徒が育ち、将来的に高額な献金となって戻って来る可能性を全く否定して、ただ一時的に教会が大きくなるのしか望んでいないと言わざるを得ない金圭東氏の考えと姿勢を思うと、彼は教会の牧師として大失敗したのだと言って良いでしょう。
自分に箔をつけるためにキリスト教会の牧師になろうとすると、金圭東氏のように大失敗して教会生活にピリオドを打たざるを得ないのだと私は学びました。本来は隣人を愛し仕える事で人が育って、協力者も得られるのでしょう。しかし、金圭東氏は「たくさんの信徒が欲しいが、育てるのが面倒」と考えて、神様の愛ではなくて賞罰の管理と言う勢い(弟子訓練)でコントロールする道を選んだ。そんなテクニック紛いのやり方に、愛である神様は味方する事はなかった。自分の判断ミスで起こった様々な問題を金圭東氏は、自分より身分の低い教職者や信徒に丸投げして怒りたくっていたようだが、そんな姿勢が益々自分の首を絞める事になると知らないのだろうか。
金圭東氏は、主日礼拝でメッセージを語る以外、私の前に姿を見せた事は殆どない。教会内をフラフラ散歩していたくらいでした。彼のやり方は、信徒たる馬の前に好物の人参を吊るして誘い出し、その馬を味方にするや否や追いきれない奉仕を背負わせ、ひたすら鞭を入れて走らせて成果を出すだけ。馬が消耗して倒れたら、「貴方はダメ」と冷たく言って突き放し、その馬が教会を離れたら「こんなに愛してあげたのに…」と言う。よっぽど暇だったのか、金圭東氏はセクハラを働いて教会を去らざるを得なかった。
本来なら、正体隠しで不特定多数の若者をいっぱい集めたのだから、そこには人数の分だけ教会のあり方について意見があったはずです。そんなまとまりそうにない意見をまとめるために、ヨハンの教職者は日夜議論して、神様の御心を探るために祈り続けるのが本来のヨハンのあり方のはず。金圭東氏の妻である金明玉氏を見ていると、彼女は高学歴の若者に囲まれている自分に酔っている感じが私にはありありと伝わって来ていた。3流大学に在籍していた私など、愛するに値しなかったに違いない。
ヨハン早稲田の教職者は、機嫌の良い時だけ子供の相手をする親のようなタイプの人が多い気がします。それは自己中心的であり、的外れ(聖書的な意味での罪)であり、人を育てているとは決して言えません。愛は忍耐強いのですから。セクハラに遭った女性だって、勢いに乗って教職者になってしまった方々であり、彼らだって被害者だろうと思います。本当の意味で、神様の愛を体験しないといつか行き詰まるのでしょう。私の人生にも、ヨハン早稲田教会と言う津波が押し寄せましたが、主なる神様を根っこに持っていた私は押し流される事なく、十数年経過した今でもちゃんと保たれています。
今も淡々と教会生活を送る私に、ヨハン時代の友人達は私の事を「奇跡の人」と呼びます。以前にも増して、輝いているように見えるのは、真理が私を自由にしたからこそでしょう。ヨハンでは末端の筍員でしかなかった私が、今や執事や青年会の会長として教会に仕えられるのは、愛である神様が味方して下さったお陰です。ヨハンの教職は、「なんであいつが成長するのか?」と首をかしげるでしょうが、愛なる神様であるイエス様に依り頼むとやり直せると言う事なのです。だから、ヨハンのリーダー達は「この人はダメ」と決めつけて、育てるのを諦めるべきではないでしょう。愛が万能だからこそ、自分の判断(弟子訓練)を優先させた金圭東氏は痛い目を見たのです。
失敗して尚、自分のやり方を変えようとしないのは、偶像崇拝と言うのですよね。強制的に押し付けるなら、誰でも出来ます。それで相手を不快な思いにさせ、心を閉ざさせ、ダメージを負わせる。こんな簡単で確実な方法はありません。しかし、それでは相手を動かせないのです。神様を愛し、隣人を愛し、いつも神様の御下で落ち着き安らいだり、純粋な福音を継続して宣べ伝えたり、ゆっくり穏やかに歩む必要性がありますが、ヨハンは神様の愛に騙す意図や暴力性と言った異物を混入したので、もはや使い物にならない偽りの愛を原動力にせざるを得なくなってしまったのでしょう。それを活用する牧師は、ひょっとしてアウトローなスターと同じく魅力的なのかもしれない。日本の安倍首相が憲法9条を改定しようとするのと同じように。でも、神様の愛を存分に感じ、その愛に応答する事に勝るものはないのです。地道に神様を愛し仕える事の底力を実感して、Aさんは「騙された」と言う言葉を使ったのだと思います。神様の愛に異物を混ぜ、成功する可能性を低下させてしまっては、勝てる勝負にも勝てないとAさんは悟ったはずです。
ウチの牧師からは、「ヨハンは体制が替わって、良くなろうとしているみたい」と伺っています。でも、今は看板を替えただけの段階でしょう。私としては、階級制度を無くす事と徹底した聖書主義の導入を望みたいです。他人任せにせず、自分の考えと姿勢に責任を持ち他者を愛して行かないと、愛は籠らないし伝わらないでしょう。多くを望むなら、ないに等しい一歩を大事にしないと、本当の幸せは得られるまでには至らないと言う事をヨハンに連なるお一人おひとりに申し上げたいと思います。
川島堅二
クランプさん、投稿をありがとうございました。
ヨハンの離脱者で、現在、教会の執事や青年会の会長をしていることは確かに希少でしょう。
本当にうれしいことです。