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深井智朗さんのこと

 投稿者:川島堅二  投稿日:2019年 5月26日(日)12時25分48秒 px01-r1.nc.tohoku-gakuin.ac.jp
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   深井さんは東京神学大(以下、東神大)の後輩であるとともに、彼が神学生の一時期、私の出身教会でもある下谷教会に出席され、私も親しい下谷教会の信者さんたち(私の両親を含む)とも浅からぬ親交があった。
 また、東神大出身の学者・研究者には大きく分けて2つのタイプ、すなわち他の大学で学部教育を終えてから東神大に編入して神学の研鑽を積むタイプと、高校卒業後、最初の大学として東神大に入学、その後さらに他の大学院や研究機関で研鑽を積むタイプ(正確な数は不明だが、おそらく前者が圧倒的多数で、後者は少数派)がある。深井さんも私も後者なので、そういう意味でも、いくつもの業績を出して活躍していた彼の姿は誇らしく、広い意味でファンの一人であった。
 近代のキリスト教思想という専門分野は同じでも、私など彼の足元にも及ばないような業績の数々で展開された神学思想史の解釈、とくに20世紀の弁証法神学以降の現代神学の背景として扱われがちな19世紀の近代神学への評価には大きな影響を受けたし、その解釈は今も間違ったものではないと確信している。
 深井さんの研究の魅力は独創的な切り口に加えて「わかりやすく面白い」ということだったと思う。ある神学者の研究をするとき、通常はその神学者の著書や論文をもとに論じるのだが、彼の研究は、例えて言うなら、そうした成果物が産まれた書斎机の引き出しに何が入っていたかまで明るみに出して見せるようなところがあった。したがって、キリスト教学会などでの彼の発表は常に満席の聴衆、不幸にも彼の発表とバッティングした他の発表会場は閑古鳥が鳴くということも珍しくなかった。
 しかし、稀にだがそうした独創性追求が「すべる」ことがあった。もう10年近く前だが、論理的に少し無理があるのではと感じた発表があった。ただ当時の彼は、そうした点をフロアーから指摘されると、時を置かずして公の場で訂正する謙虚さを具えていた。
 彼の翻訳の「読みやすさ」も定評があったと思う。トレルチの『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』やハルナックの『キリスト教の本質』、そしてシュライアマハーの『神学通論』『大学論』『宗教について』等々、いずれも神学生のときに読みにくい翻訳で四苦八苦させられた専門書を、次々に読みやすい日本語にして刊行した。
 ただ「読みやすさ」を求めるあまり、少々「雑」と思える部分が気になってはいた。例えば『宗教について』において、シュライアマハーは明らかに区別して用いている用語Gefuehl(感情)とGemuet (心情)、Einbildungskraft(構想力)とPhantasie(想像力)、 Augenblick(時間的瞬間)とMoment(質的転換点)などを区別なく同じ訳語を当てている点などである。しかし、従来の読みにくい逐語訳への果敢な挑戦、一般向けに極力「読みやすさ」「分かりやすさ」を優先させた結果であるなら許容範囲と言えなくはない。
 「架空の神学者」「(存在しない)トレルチ家の家計簿」といった今回の不祥事も、「独創性」や「新奇さ」、「分かりやすさ」や「面白さ」追求の果ての「ほころび」と言えるのかもしれない。だとしたら、昨年の早い時点で、学会に公開質問状が出された時、以前したように、なぜすぐに非を認めて訂正できなかったのか。いたずらに嘘、言い訳を重ねて自ら傷口を広げてしまったのか、本当に残念でならない。
 いずれにせよ、今回のことでキリスト教研究が受けたダメージは計り知れない。その信頼の回復に一歩一歩努めることが私たちキリスト教研究に携わる者の責任だと思う。
 
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