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本日、入信していらはじめて日曜礼拝を無断欠席しました。
ヨハン教会の日曜礼拝は欠席し家の近所にある日本基督教団の礼拝に出席しました。
担当の牧師先生とも短い時間ではありましたが面談する時間を頂き、
自分をクリスチャンとして生み出してくれたヨハン教会には感謝をしているし
「信仰」は絶対に捨てたくないし出来るなら引き続きヨハン教会に通いたい気持ちもあるけど、主に金銭的な理由でこれ以上は通えないという旨を率直に相談しました。
一時的にカードローンから献金や各種イベントの費用を捻出していたことも打ち明けました。
ヨハンではなく日本基督教団の礼拝であっても私なりに「信仰」は守ったつもりです。
もしこれが間違えた「信仰」であるならば主が幾重にも私を罰して下さるように。
ただ、気がかりなのは、ヨハン教会の中でも比較的立場や心が弱く、役に立たないと心の奥底で筍長達に判定されてしまったような兄弟姉妹たちの信仰です。彼らの今後を自分自身の目で確認できないし、また、守っていってあげられないのは心残りなことでもあります。
また、ヨハン教会を通して「神の子」となったにも関わらず、教会で用いられようとするあまり実践ばかりが先だって「奴隷」みたいになってしまっている兄弟姉妹のことも心配であります。
ヨハンは正統か異端か、という括りで見るならば間違いなく「正統」であると思われます。
ただ、私は私で教会の活動がなくなった分の時間を聖書や信仰関係の本を読むことと自己啓発に充てて自分自身の「信仰」ともう1度向き合いつつ人生を設計していく所存であります。
はじめてヨハン教会で礼拝を捧げたときは何もかも新しかったです。
私はヨハンに通う前も教会に通っていた時期がありました。
ヨハンでは、礼拝が大人数で若い人達が中核を占め、はじめて聞く現代賛美もかなりパワフルでいて、また牧師先生の福音的なメッセージも力強く核心をついたものであり、招かれるだけでも("刺激的")ただただ受ける一方的な恵で楽しかったです。ただ、受洗してから少し経って補助筍長になってからは、その"刺激"が徐々に薄れて行き、教会に通い始めたころの恵みの効用を維持するためには次第により大きな代償を払わなければならない、と感じるようになってまいりました。まるで麻薬のようであります。イベントの時など誰も連れていけなかった時は罪人になったかのような意識に陥る本末転倒なことにもなりました。このことが離れる直接的な理由となったわけではありませんし、恐らく教会の活動に献身するときに<恵みの中でやるのか?><奴隷としてやるのか?>の見えない壁も、乗り越えようと思えば乗り越えられたでしょう。ただ、そう考えていた時にある事件が起きました。日曜礼拝を仕事で休んでしまった仲間の補助筍長が陰でまた電話でメタクソに言われているのを聞いた時に、金銭的な問題や自分自身の信仰の壁を乗り越えてでも教会で献身を続ける価値がないという結論に至りました。
ヨハンに戻るかどうかは分かりませんが、しばらくは距離を置いて様子を見ようというのが今の方針です。
連絡も一切返さないつもりです。
この投稿が誰の発信であるのか見る人が見れば丸わかりですが、
この投稿をもって連絡への「応答」とさせて頂きたく思います。
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