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心の回復

 投稿者:白檀  投稿日:2011年12月 8日(木)21時34分55秒 124-144-159-128.rev.home.ne.jp
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  この掲示板の目的は、特定の教会へ参加することへの注意を促すことの他に、問題ある教会へ参加して以後、信仰が持てない、あるいは日常生活を送ることも不自由している場合、どのように対処すれば良いかを考えることがあげられると思います。

この点について私が有効と思うことは、できるだけ固有名詞を使わずに一般的な言葉で、問題ある教会を批判的に検討して解体することです。「○○教会への鬱屈した思い」を「問題をもった一教会」と新しく置き換えることができれば、心の中で固執がおこり難くなるのではないでしょうか。

ここで、大きく2つのタイプの脱会者を考えたいと思います。ひとつは洗礼を受けて間もない段階で脱会した方々。もうひとつは、洗礼後、数年の働きを経て脱会した方々です。

■ 洗礼を受けて間もなく脱会した方々の場合、元いた教会に対して新しく考えを置き換えるポイントは、「果たしてあれは信仰を経た後の洗礼だったのだろうか」という点だと思います。しかし、信仰というと言葉で明確に記すことはできません。そのため、「何が信仰でないか」を見ることがひとつの試みになると思います。

まず信仰は「取引」ではありません。多額の献金をした、勧誘者を多く引き連れた、教会に住み続けて家賃を教会に納めた、よって教職者に褒められ必要とされた。だから教会に多くを捧げた。これは信仰ではありません。取引です。

次に信仰は「友情」ではありません。大切な友人が教会でできた、あるいは元々、大切な友人がいて、その友人と一緒に行くと意義ある時間が教会でつくることができるから、教会へ行った。これは信仰ではありません。友情です。

次に信仰は「敬意」ではありません。教会内になんでもできて優しく、人格も優れた教職者がいて、その教職者のようになりたいから教会へ行った。聖書を学んで欲しいと教職者に言われ好きな教職者のために読んだ。これは信仰ではありません。敬意です。

私個人の考えかもしれませんが、信仰とは取引や友情や敬意、人との関わりから生まれるすべてを取り除いてなお、最後に残るものだと思います。洗礼を受けて間もなく脱会した方がいて、仮にこのいずれかに当てはまった場合。そのときは「自分は実は、キリスト教を見たことも聞いたこともなかった」と新しく考えを置き換えるのが大事かもしれません。

■ 続いて、洗礼後、数年の働きを経て脱会した方々です。これは私のケースでもあります。こうした方々が、元いた教会に対して新しく考えを置き換えるポイントは、「彼ら彼女らは、実は私の心のなかみなど何も見ていなかった」という点だと思います。

それはこういうことです。私は自身の経験上、元いた教会や教職者について苦痛な感情が起こることがあります。それを記憶から消すことは難しいです。なぜならば、元いた教会に深く関わろうと決意した背景と、自身の心に欠けている部分とが分かちがたくセットになっているためです。心に欠けている部分をふと思い返すと、その連想で元いた教会を思い出すことがままあります。

ここで「心に欠けた部分」とは、たとえば親や兄弟を亡くしたこと、親の離婚で家族が離散したこと、幼少期に虐待されたこと、親から真に愛情を受けたと信じられないことなどです。また「救い」の求めも心に欠けている部分にあたります。というのは、「自分自身がこの世に放り出されて生まれ、理由も分からず老いて死ぬ」ことは、すべての人が持つ心に欠けた部分であり、救いとはそれに意味を与える作業だからです。

洗礼後、数年の働きを経て脱会した方々が、おかしいと思いながらも元いた教会に関わり続けた大きな理由のひとつは、この「心に欠けた部分」だと思います。特に拡大志向を持つ教会の教職者は、信徒の心に欠けた部分を見抜くことに長け、「手で触れて」きます。これが脱会後も人に苦しみを与えます。

しかし、私個人の経験として、「よく考えてみると、教職者の彼ら彼女らは、本当に私の心の中身が見えていたのだろうか」とある日、思い立ちました。元いた教会は組織として問題ありますが、教職者の多くは善良で熱心です。ただ、知っての通り彼ら彼女らの日常はあまりに忙しい。私たち一人一人を見る時間は、実はほんの限られた時間です。

一方、人と人が本当に分かり合うには、膨大な時間が必要です。生涯で親友は1人か2人いれば最高に幸運と言うべきで、夫婦が真に分かり合える時は、ひょっとしたら老年の死に際ほどなのではないでしょうか。人の心はそれほど複雑で難しくできていると私は思います。

すると、元いた教会の教職者が私たちの心に欠けた部分を見抜いて、手で触れて来たように思えたことは、実は教職者の検討はずれだった場合が多いような気がします。今振り返ってみると、「彼ら彼女らは、実は私の心のなかみなど何も見ていなかった」のです。

これら新しい考えの置き換えは、大きく回復をもたらさないものの、心のよみがえりのきっかけにはなるのではないでしょうか。

■ 本来、こうした心の回復のための道筋を考える作業は、拡大志向を持ちながら脱会者を多く出すような教会が行わなくてはなりません。教会は、その運営によって生まれるポジティブな面とネガティブな面を同時に考慮し、組織の仕組みや日常の運営方法を設計する必要があると思います。

たとえば、優れた製品を生産しつつ公害を出す企業があった場合、「世に提供している製品が優れているのだから、公害を出しても問題はない」と言っても弁解になりません。これと同じく、「洗礼者を多く出しているのだから、心に傷を負わせた脱会者が多くなっても仕方ない」というのは問題外です。

さらにいえば、心に傷を負ったばかりに、キリストへの不信仰に極端に振れる方々も数多くいます。これはキリスト教の宣教においてさえ、大きな弊害です。心の傷が原因で不信仰に振れてしまった方々を意図的に無視する教会があった場合、その教会の牧師は主日に信徒に対して説教する資格が果たしてあるでしょうか。私はそう思いません。
 
    (川島堅二) 興味深い投稿をありがとうございます。おそらく多くの方の心の整理に役立つのではないでしょうか。  
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