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  1. ヨハン教会について(371)
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プロパガンダが・・

 投稿者:ななしのひつじさん  投稿日:2013年 6月26日(水)16時27分51秒 h101-111-029-158.catv02.itscom.jp
   題:プロパガンダ(嘘宣伝)がはっきりして来ている。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 1945年の上エジプトで、「ナグ・ハマディ文書」という文書
が発見された。
 この中には、「トマスの福音書」と言われる文書も入ってい
た。
 また、これらの文書は、「グノーシス主義」という主義の文
書だった。
 グノーシス主義は、初期キリスト教の時代に、正統的な教会
から『異端』というレッテルを張られた、最大の運動だった。
 「トマスの福音書」は、その異端運動の中心的文書であった。
 「グノーシス」とは、ギリシャ語であって、
 意味は、「洞察を深め、字義通りの解釈を越えて到達される
高い次元での奥義的な英知」という意味だった。
 この運動は、「イエスの復活」などは『事実ではない』とし
て、信じ込む事は「愚かな事」として退(しりぞ)けていた。
 そして現代、アメリカの気鋭な学者集団の数十人からなる研
究団体は、この「トマスの福音書」を研究対象に加えないとイ
エスの原像には辿(たど)れないとした。
 そして、これらの研究によれば、「イエスの奇跡」などは、
 かなり後になってから『作り出された話(創作話)』である
という研究結果を発表している。
 また、イエスは、「遊行哲学者」ふうの人と発表した。
 また、「イエスの死を贖罪の死」と捉(とら)えるのも、かなり後
代に発展された(作り出された)事という。
 復活信仰は、かなり後代になってから(創作)という。
 また、日本の学者も「初期キリスト教の宣教を、贖罪信仰を中心に
した」と考えるのは間違っていると言う。
 伝統的なキリスト教の「奇跡信仰」は眉唾だとしている。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)が、近代の研究の成果で、は
っきりして来ている。
(参考)ゆう‐こう【遊行】 [名](スル) 1 遊び歩くこと。「外国に
―して一時歓娯を極むるに似たれども」〈織田訳・花柳春話〉 2 さま
ようこと。
        (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp
 

救済について・・・

 投稿者:ななしのひつじさん  投稿日:2013年 6月26日(水)01時03分45秒 h101-111-029-158.catv02.itscom.jp
  御一読ください
題:こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの家族について、見てみると、
 イエスには、兄弟姉妹が大勢いる。
 イエスは、現代からみれば、多いと言える大家族の肉親を持
っている。
 イエスの弟・ヤコブが有名だが、キリスト教の宗教的な教義
から見れば、イエスは『神』だが、ヤコブは『使徒』だ。
 また、キリスト教の宗教的な教義から見ると、「イエスだけ
が、ヨセフと血縁ではない」。
 しかし、イエスが故郷のナザレに返ってくると、
 故郷の人たちは、イエスを懐かしく見て、「預言者とはうま
いことをやっているな」とイエスに声をかける。
 イエスも、「古里では、預言者も預言者ゼンとしてられない」
的な言葉を言っている。神通力が働かないというところか。
 故郷という所のイエスは、イエスの治療効果が働かないとい
うことは科学的にも立証されている。
 イエスがやっている「患者に手を置く」「手を当てる」とい
う行為は、病を癒(いや)す効果があることは、近代科学でも
立証されている。
 つまり、イエス以外の人でも効果があるという事である。
 また、精神的に病んだ人も、ステータスのある人がイエス的
な治療効果を得させることはあるとの結果を得ている。
 そして、イエスを子供の頃から見ていた故郷の人には、キリ
スト教的な見方では、当然、なかったのは当然だろう。
 普通の子供の様に、子供仲間と駆け回っていた野山があり、
古里の家並みがあり、喧嘩もしたのだろう(イエスは短気だし)、
 そして、泣きわめく男の子として近所の人・古里の人たちは
見ていたのだろう。大きくなっていく、育っていく過程を。
 そしてまた、その故郷の人たちは、近所の人として、夫婦
(ヨセフとマリア)の血のつながった子供と見ていたのだろう
(血縁の子)。
 キリスト教は、イエスを宗教的な題材として取り上げた時か
ら、神格化への道を歩み、数百年も経っての後の公会議で、
「やっとイエスを神として認めた」。
 その途中には、イエスを「主とも呼んでいなかった」。
 イエスを「主」と呼ぶ様にしたりして来たり・・・。
 イエスが神となった公会議決定のその時から、キリスト教的
には、マリアは、神の子を産んだと言う事になった。
 そして、神の子を産んだのなら、母・マリアも神だろうとい
う話になり、その問題点を補完するキリスト教の教義も新しく
作ったりした(「無原罪の御宿り」など新しく教義として決め
た)。
 がしかし、マリアは、人の子も産んだという事になっている。
 次から次へと問題点は出て来る。
 イエスが、その兄弟姉妹の長男という事は間違いない事実だ
し・・・。
 キリスト教の教義的には、説は色々あるが、マリアは、イエ
スを処女で産み、ヨセフは、マリアの処女性に悩んだという話
は聖書にあるが、イエスの後、ヨセフとの間の子(人間の子供)
を何人か産んだ。
 またはそれとも、マリアの処女性を優先するのなら、その後
の子供達も(イエスの兄弟姉妹たちも)、神の子となるのだろ
うか?・・と、話は舞う。
 いずれにしても、この様な事を「ああだ」「こうだ」と言う
キリスト教の宗教性の程度にクエスチョン・疑問が涌く。
 話のレベル的には高いという感じはしない。
 それを気にしてか、キリスト教の聖書の(「マタイによる福
音書」1・25)には、
 ヨセフが、「男の子(イエス)が生まれるまでマリアと関係
する事は無かった」とわざわざ書いている。
 そしてまた、イエスの誕生後は、性的関係を持ったという事
が明記されている。その様に、はっきり「わざわざ」書いてい
るが、キリスト教は、このブログに書くのも嫌になるほど、こ
れを問題とし「ゴチャゴチャ」言い続けている。軽蔑すべき状
態となっている。
 こっちを繕(つくろ)えば、あっちが解(ほつ)れるという
状況のキリスト教宗教となっている。
(参考)ステータス【status】 《「ステイタス」とも》 1 社
会的地位。また、それを表すもの。 ステータス‐シンボル【sta
tus symbol】 社会的地位や身分を象徴するもの。
            (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp
 

ヨハン教会の献金について

 投稿者:キョクシン  投稿日:2013年 6月 9日(日)20時49分12秒 nptty405.jp-t.ne.jp
  (一部を編集して公開します。)

大学生さん、私も以前ヨハン教会に通っていた者ですが、献金について疑問に思われている事はその通りで、誰が献金をしているかを確認するために名前を出しています。礼拝のプログラムに名前が載せてあるのは、これにより信者の信仰心の強度を確認するためです。ヨハンでは「信仰心」が篤い事が絶対視されるので、信仰心が無い人は教会の奉仕活動には携わらせません。そういう意味で、信仰心をこれだけ絶対視するという事から、献金も信仰心の強度を測る一つの方法なのです。
 

ある出来事より

 投稿者:脱兎  投稿日:2013年 5月28日(火)21時58分21秒 KD124208063218.ppp-bb.dion.ne.jp
  最近仕事でご一緒した方(同性)の話です。
・一匹狼だけど、私にはフレンドリー。
・何かと物をくださる。
・いろいろと旅行に誘ってくださる。
・メールを頻繁にくださる。
短期間で随分仲良くなれる人もいるんだな、と楽天的に思っていたら、だんだん状況が変わり
・一緒にお茶しに行くと、あり得ない時間まで引き止められる。
・ほかの同性の方と世間話をすると不愉快だと言われる。
・家庭の事情を理由にお誘いを断ると「私と家の人とどっちが大事なんだ」「あなたには社会人としての常識がない」などと責め立てる。
・メールの返事が遅いと怒られる。
…ようになりました。
当然ながら恋人とかではなく、仕事が終わればまたアカの他人に戻るような関係の方です。
結局、こちらもそこまでのご期待には添えないので、仕事以外では関われないことをお伝えして疎遠になりました。多少の摩擦はありましたが、仕事に行けなくなるよりはマシと思い耐えました。

いろいろと調べると、このようなタイプの方は、自分でも無意識のうちに「とりつく」相手を探すようで、
とりつかせてくれる相手かどうかも感覚でわかるそうです。
「とりつく」相手も、いい人でありたいとつねづね思っている人、自分の都合より人を意識してNOと言えない人などが適しているのだそうです。
…つまり、私はそういう人間です。自分でもわかっています。
ヨハンを出て何年も経っているのに、まだ人を見抜けず、逆に「選ばれて」しまう自分は本当に恥ずかしいと思いました。このように内心見栄を張っているから、ヨハンの戦略にまんまとのせられてしまったのでしょう。まったく成長していません。
あとから読み返すとこの方の私への近づき方、心をつかんだあとの振る舞いは、ヨハンのやり方に似ていますね。

普通の精神状態ならこういう相手からはすぐ離れるべきだと思いますが、ヨハンの支配的教育を受けていたら、判断を下すのは大変かもしれません。
ヨハンを出たいとか、出たあとも苦しんでいる方がどれほどいるのか私にはわかりませんが、
どうか自分の本音を大事にして行動してください。
中途半端な優しさは神様が喜ばないと思います。
ほかのメンバーは神様が何とかなさるでしょう。
無理して愛に似た何かを振りまくよりも、何にもしなくても自然体でいられるほうがずっと(周りの人も)幸せなことだと思います。
長くなってすみませんでした。
 

元・現役信者さんへ

 投稿者:匿名  投稿日:2013年 5月 5日(日)23時39分22秒 p25100-ipngn100502fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
  投稿、改めて読ませていただきました。お疲れ様です。
多くの人が入信し、多くの人が無念を抱えてヨハンを離れていきました。
私も、大昔に離れた、同じ一人です。
そして、今でも究極の意味では「迷いながら」生きています。

あなたのやさしさは、いつかヨハンの意味ではなく、本当の意味で「実を結ぶ」のだと思います。どうか、ゆっくり休まれて下さい。
 

さーさんの投稿を読んで

 投稿者:大学生  投稿日:2013年 5月 2日(木)16時22分4秒 KD182249142236.au-net.ne.jp
    さーさんの投稿と同じように、僕はヨハン教会の者ですが、僕も伝道方法にとても不信感を抱いています。これが本当に伝道なのか?といつも疑問です。僕は彼らのやり方ではやらず、直接福音を伝えます。しかし、彼ら曰く、「福音を直接伝えるよりは、徐々に教会の行事に誘って心が開いたら伝える方が効果的だ」らしいです。それもとてもいいと思います。

しかし、教会の礼拝に誘うにもかかわらず、「日韓交流会だ」などと偽っていることに僕は特に不信感を抱きます。
「教会の礼拝に参加して見ませんか?と素直に誘えばいいのに」といつも思っています。





 

ヨハン教会についての取材協力

 投稿者:川島堅二  投稿日:2013年 4月29日(月)17時22分51秒 nptty307.jp-t.ne.jp
  ヨハン教会についての取材協力の呼び掛けに現役信者を含む多数の方々からお申し出をいただき感謝致します。

取材は引き続き行われますので、ご協力いただける方はcult110@hotmail.comまでご連絡ください。記事等で公になる際には、個人が特定される内容が出ることはありませんが、取材の際には、最低限の個人情報(氏名、連絡先等)は明かしていただく必要があることをご了承ください。
 

「さーさん」の投稿について

 投稿者:川島堅二  投稿日:2013年 4月29日(月)08時18分21秒 e0109-106-189-115-201.uqwimax.jp
  先に連絡を呼びかけた「さーさん」から、投稿は自分が感じた通りのありのままの経験であるとのお返事をいただきました。すなわち、教会のことは一切口にせず、『私たちは留学生です。新入生のためにバザーをしています。』と言って語りかける「伝道」の現場を初めて目の当たりにしたとき、これは偽りの勧誘行為ではないかと強い不信感を抱いたが、自分はただ隣りで呆然としているしかできなかった。奉仕も予定がない限り、行かなくてはならない。断れない。キャンプだって、断りきれないと感じたと。

これはハラスメントを行う側と、受ける側によく生じる問題です。行う側は「そんなつもりで言った(やった)のではない。嫌ならはっきり拒絶すればいいのに」と弁解する。しかし、ハラスメントが成立するのは、された側がどう感じたかによってです。された側は、たとえ言葉で拒絶を語っていなくとも、強い不快感や、拒否できない強制を感じている場合があるということを、ヨハン教会の方々は、心していただきたいと思います。
 

深井智朗氏の『宗教について』の訳について

 投稿者:麹町教会の一信徒  投稿日:2013年 4月28日(日)20時11分27秒 p42243-ipngn101souka.saitama.ocn.ne.jp
  春秋社より深井智朗氏の訳によりシュライアマハーの『宗教論』の翻訳が
『宗教について』という題名で刊行されましたが良い翻訳になっておりますでしょうか?
川島先生の忌憚のないご意見をお聞かせください。
 
    (川島堅二) まだ入手していませんが、もうすぐ届く予定です。読んだらレポしますね。シュライアマハーの宗教論はこれまでいくつも訳が出ていますが、組織神学者によるものは初めてと思います。楽しみです。  

元ヨハン信者

 投稿者:さー  投稿日:2013年 4月26日(金)21時45分54秒 s1429133.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
  私は最近、ヨハンを脱会しました。
私がヨハンに出会ってから、約一年経ちます。受洗もしました。今だから多くのことを客観視することができます。
私が離れた理由、それは、あまりにも強制的だからです。奉仕から礼拝、更にはキャンプなど、参加するかどうかの決定権は私たちにはありません。全ては先生によって決められてしまいます。私たちの気持ちなんて無視です。キャンプはただでさえ、お金がかかる。学生の私にとって、大金です。都合が悪いと言ってもしつこく説得され、結局は連れていかれる…本当に嫌でした…そして、伝道のやり方に不信感を覚えました。教会ということを隠し、身分を偽る…勧誘をする際にも、しつこく誘う。クリスチャンであることを証せよ、福音を恥としないと語っているにもかかわらず、嘘をつく。矛盾していませんか?奉仕も用事があっても断れない。やりたいことが沢山あるのに、貴重な土曜日は奉仕で潰れ、日曜日は礼拝に行く…休みなんてありません。教会にいると、自分を失っているようでした。
思い切って、教会を離れることを告げました。案の定、三時間も説得されました。ですが、意志を貫き通しました。後悔していません。今は日本基督教団の教会に行っています。私の他に、教会を離れたいといっている兄弟姉妹はたくさんいます。教会というのは、本来、救いを求める者が安らげる場所ではないのですか?それなのに、多くの兄弟姉妹が傷付き、辛い思いをしている…悲しいです。
多くの人が苦しんでいるということに、気付いてほしいです。救われますように…
長文ですみません。
 
    (川島堅二) 投稿をありがとうございます。ヨハン教会の一面を知る貴重な情報になります。少し落ち着かれたら、直接お会いしてお話を伺いたいです。その時は、ご連絡ください。  

献金について

 投稿者:大学生  投稿日:2013年 4月18日(木)21時54分39秒 KD182249149040.au-net.ne.jp
    すこし疑問に思ったので、投稿しようと思いました。ヨハン教会の礼拝に通っています。

  献金の封筒や袋になにかを書くところがあります。そこには名前を書くそうですが、名前を書かず献金していました

  一般的に献金封筒に名前って書くのですか? 名前を書かなくても僕は、主に感謝して献金しているので、主はご存知だと僕は信じています。

名前を書かずに献金をしていたので「献金してないよね?」と言われました(笑) 名前を書く理由って誰が献金したかしてないか知るためなのではと思いました。その意味はないと思うんですけどね。

文章まとまっていませんすいません。



 
    (川島堅二) 投稿ありがとうございます。

献金袋に記名欄があるのは、珍しいことではありませんが、献金者の氏名を毎週配布される礼拝のプログラムに載せる教会は、あまり知りません。ヨハン教会はこの点が特異かもしれません。
 

(無題)

 投稿者:匿名  投稿日:2013年 4月14日(日)23時37分11秒 KD182249242011.au-net.ne.jp
  先日キャンパスで声をかけられました。
留学生と交流できるという話で、おもしろそうだと思っていたのですが、今日初めて教会のことを知りました。成り行きで礼拝にも参加してしまったのですが、牧師さんのお話には全く共感できませんでした。
でも、声をかけてきた人自身はとても感じのいい人で、連絡先も教えてしまったのでこれからどうすればいいのか困っています。今度また会うことになってしまっているのですが…
 
    (川島堅二) 留学生と交流できるはずが、キリスト教の礼拝への参加。それは正体を隠した違法勧誘です。相手が良い人に見えるかどうかは問題ではありません。はっきり断わりましょう。キャンパス内での違法勧誘行為ですから、学生課に通報しておくことをお勧めします。  

教会への献身とただ招かれること。(LEGEND氏への返信)

 投稿者:(元)現役信者  投稿日:2013年 4月14日(日)12時55分10秒 p3150-ipbf1409funabasi.chiba.ocn.ne.jp
  本日、入信していらはじめて日曜礼拝を無断欠席しました。
ヨハン教会の日曜礼拝は欠席し家の近所にある日本基督教団の礼拝に出席しました。


担当の牧師先生とも短い時間ではありましたが面談する時間を頂き、
自分をクリスチャンとして生み出してくれたヨハン教会には感謝をしているし
「信仰」は絶対に捨てたくないし出来るなら引き続きヨハン教会に通いたい気持ちもあるけど、主に金銭的な理由でこれ以上は通えないという旨を率直に相談しました。
一時的にカードローンから献金や各種イベントの費用を捻出していたことも打ち明けました。


ヨハンではなく日本基督教団の礼拝であっても私なりに「信仰」は守ったつもりです。
もしこれが間違えた「信仰」であるならば主が幾重にも私を罰して下さるように。


ただ、気がかりなのは、ヨハン教会の中でも比較的立場や心が弱く、役に立たないと心の奥底で筍長達に判定されてしまったような兄弟姉妹たちの信仰です。彼らの今後を自分自身の目で確認できないし、また、守っていってあげられないのは心残りなことでもあります。
また、ヨハン教会を通して「神の子」となったにも関わらず、教会で用いられようとするあまり実践ばかりが先だって「奴隷」みたいになってしまっている兄弟姉妹のことも心配であります。


ヨハンは正統か異端か、という括りで見るならば間違いなく「正統」であると思われます。
ただ、私は私で教会の活動がなくなった分の時間を聖書や信仰関係の本を読むことと自己啓発に充てて自分自身の「信仰」ともう1度向き合いつつ人生を設計していく所存であります。


はじめてヨハン教会で礼拝を捧げたときは何もかも新しかったです。
私はヨハンに通う前も教会に通っていた時期がありました。
ヨハンでは、礼拝が大人数で若い人達が中核を占め、はじめて聞く現代賛美もかなりパワフルでいて、また牧師先生の福音的なメッセージも力強く核心をついたものであり、招かれるだけでも("刺激的")ただただ受ける一方的な恵で楽しかったです。ただ、受洗してから少し経って補助筍長になってからは、その"刺激"が徐々に薄れて行き、教会に通い始めたころの恵みの効用を維持するためには次第により大きな代償を払わなければならない、と感じるようになってまいりました。まるで麻薬のようであります。イベントの時など誰も連れていけなかった時は罪人になったかのような意識に陥る本末転倒なことにもなりました。このことが離れる直接的な理由となったわけではありませんし、恐らく教会の活動に献身するときに<恵みの中でやるのか?><奴隷としてやるのか?>の見えない壁も、乗り越えようと思えば乗り越えられたでしょう。ただ、そう考えていた時にある事件が起きました。日曜礼拝を仕事で休んでしまった仲間の補助筍長が陰でまた電話でメタクソに言われているのを聞いた時に、金銭的な問題や自分自身の信仰の壁を乗り越えてでも教会で献身を続ける価値がないという結論に至りました。


ヨハンに戻るかどうかは分かりませんが、しばらくは距離を置いて様子を見ようというのが今の方針です。
連絡も一切返さないつもりです。
この投稿が誰の発信であるのか見る人が見れば丸わかりですが、
この投稿をもって連絡への「応答」とさせて頂きたく思います。
 
    (川島堅二) 勇気ある、そして賢明なご決断だと思います。神の祝福とお導きが豊かにありますように。  

ヨハン教会に関する報道への協力依頼

 投稿者:川島堅二  投稿日:2013年 4月12日(金)15時41分5秒 keisen-gw-2.keisen.ac.jp
  某報道機関から、ヨハン教会について取材協力していただける元信者がいないか求められております。匿名での協力です。ご協力いただける方は、川島までメール(cult110@hotmail.com)等でご連絡ください。  

矢来の外へ

 投稿者:名なしの羊さん  投稿日:2013年 4月10日(水)01時50分45秒 h101-111-158-009.catv02.itscom.jp
  題: 矢来の外に逃げられる様にしていた・・・
.
 江戸時代初期の頃のルソン(フィリピン)。
 キリスト教聖職者のルイス・フローレスは、
 長い間、
 現地の人々に布教活動をしていたが、
 それほど成果が上がらないため、
 許可を得て、
 マニラの修道院に来て、
 「祈りと読書」の生活を送っていた。
 その様な時、
 日本で、宣教師が捕えられたというニュースに接した。
 その時、彼は、
 日本に行って同じ様な事をしたいと思った。
 「労苦を重ね、そして、死を味わいたい」と。
 管区長も許可を出し、
 「日本にある聖遺物(殉教した人の死体)を手に入れたい、
そして、手に入ることを喜んだ」。
 日本は、キリスト教の禁教令が出ていて入国してはいけない
時代だった。
 管区長もその事は知っていた。
 この頃の長崎奉行は、幕府の方針に厳格と言っていいほど、
忠実だった。
 幕府の方針は、『棄教をする者の命は奪わない』という方針
だった。
 奉行は言った「キリシタン(信仰)を棄教するなら、自らは
将軍様から権能と職権とを与えられている故、その名によって、
誓って生命は助けよう」と。
 これを、キリスト教は「甘い言葉で棄教を勧めている」とし
た。
 さらに、奉行が「棄教さえすれば釈放するだけでなく栄誉や
利益を与えよう」とも言ったが、この言葉も無視した。
 死に憧(あこが)れていた。
 殉教願望である。
 キリスト教の教え・教義、そして、その洗脳に縛られていた。
 幕府は「むやみにキリシタンを殺したくない」との姿勢であ
ったのにである。
 キリスト教の報告文には、死刑を宣告された場合、「喜悦を
表した」とある。
 しかし、これは、報告書の作成者がキリスト教の聖職者であ
ったので、本国への報告記述の美化があったと考えられる(識
者指摘)。
 また、キリスト教が、殉教をこの上なく美しく洗脳したため
とも考えられるが、日本からの報告公開するにふさわしい様に
美化したことは十分に考えられるとされている。
 いずれにしても、
 「嘘で美化したもの」か、「過剰な洗脳」かである。
 また、キリスト教は殉教される時、「身動きせぬまま死亡す
る様に」と言っていた。
 また、殉教者以外の者は、「殉教した時に、奇蹟が起きたと
言う様に」と言われていた。
 また、「殉教者の死体は聖遺物だ」と言われていた。
 あまりにも、キリスト教が、殉教を讃美し、刷り込みをする
ため、殉教場所に「子供を連れて来る殉教者」も居た。
 「殉教に与(あずか)ることができますように」と。
 幕府は、殉教者を縛り付けている縄目を、ゆるくして、
 火刑の場合、耐え難く思えば、縄を抜け、矢来(囲い)の外
に逃げられる様にもしていた。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、悲惨な印象が形成
されているが実態はこうであった。
 キリスト教は禁教であっても、最初、江戸幕府は、キリシタ
ン(信仰)は黙認していた。
 キリシタンの摘発をしようとはしていなかった。
 秀忠が家光に将軍位を譲って後に、キリスト教の信仰が禁じ
られる様になった。
 世の中は、宣教師の従者が、褒美欲しさに訴え出るという様
になった。
 また、江戸の町人は、キリシタンが近くに居ることを恐れた
りするようになった。
 また、旅籠屋では宗旨が尋ねられる様になった。
 一方、キリスト教は、殉教にあった場合、火の中でも決して
身体をくねらせたり、曲げたりせず、
 また、悲鳴を上げたりせず、
 苦痛の表情を浮かべるなとの教えていた。
 識者は、これもキリスト教の報告書の記述の関係もあるため
実態がこうであったかは分からないと言う。
 学術的に、キリスト教のこの類(たぐ)いの報告書は、歴史
的資料としての価値・品位は低く扱われている。
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp
 

(無題)

 投稿者:   投稿日:2013年 4月10日(水)00時50分24秒 119-173-218-192.rev.home.ne.jp
  あのひとたちの心理は不可思議でありません
足尾を前に井戸塀で客死した田中正造の心理です
田中正造のように立派かは別として

あのひとたちがいう日本の福音化の箱の中に 人は住んでいるでしょうか

容姿端麗 頭脳明晰 明朗快活な人を愛すのに 神は要りません
あなたがいう鼻クソや人生の敗残者を愛すには 神が要ります 人のちからではむずかしい
人を鼻クソや人生の敗残者と呼ぶ人を愛すにも 神が要ります 人のちからではむずかしい

クリスチャンがそんなにとくべつなものでしょうか
 

現役信者さんに対して批判

 投稿者:LEGEND  投稿日:2013年 4月 7日(日)02時44分21秒 p2114-ipbf4506marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
  私は現役信者がヨハンを離れるのはかなり難しいのではないでしょうか?

何故なら普通に生活するのに厳しいのに無理な献金をしているのと、ヨハンに感謝をしているらしくて、アナタは心の底では刺激を求めていて、ヨハンを離れるのは困難だと思います。
そしてアナタは掲示板の書き込み内容を読むと、ヨハンを批判をしないでむしろ、擁護しています。
本当にヨハンを離れる気があれば、今すぐにでも、川島先生に個人的にメールをしたり、会うなどの行動をしないと難しいです。

 
    (川島堅二) 投稿ありがとうございます。私にそれほどの力量があればよいのですが… 長年、この問題に関わってきて思うのは、私と面談の有無に関わらず、辞める人は辞めるし、辞めない人は辞めないということです。先に投稿のあった現役信者さんは、ヨハンに献身しながらも、ヨハンの「信仰」ではどうにもできない自分の心身の限界を予感されており、自ら新たな人生のステージへ踏み出す人ではと思います。  

主に対する感謝=教会に対する感謝

 投稿者:現役信者  投稿日:2013年 4月 6日(土)23時05分4秒 p2147-ipbf5706marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
  額が幾らであれ心を尽くして献金を捧げるならば主は喜ばれますよ。
主は、イエス様が神殿で人々が献金を捧げる様子をジッと見ていたかのように、
献金を捧げるその人の心の中心を見ておられます。
主は不平不満をよしとされません。
献金を捧げるのではなく「払う」という義務的に考えている人や、
また捧げても後でグチグチ言ってるような人のことを見て主は涙を流しています。

この掲示板を汚した非礼は詫びます。

私も普通に生活するだけでもかなり厳しく金銭的に限界がきています。
高確率で私も近いうちにヨハン教会を離脱するでしょう。
とは言え、ヨハン教会を通してクリスチャンとして産み出されたことに感謝しているのも事実です。
したがって、限界ぎりぎりまで献金を捧げます。
その献金は主に捧げるものでもありクリスチャンを産み出し力強く弟子訓練する教会に対し、
また、自分の人生をかけて日本の福音化に尽力する愛する先生方のために
心からの感謝と敬意をもって捧げるものであります。


 
    (川島堅二) 近々の離脱を予感しながらもなおヨハンに献身するという心理…不可思議ですが、それがヨハン教会のヨハン教会たるゆえんなのでしょうね。誠実な投稿に敬意と感謝を。  

付け焼き刃よりも、聖書に根ざした方が賢い。

 投稿者:クランプ  投稿日:2013年 3月30日(土)20時19分32秒 FLH1Aey047.stm.mesh.ad.jp
  川島先生、久しぶりに投稿させて下さい。

現役信徒さんが「少ない献金は献金ではない。鼻くそ。」と捉えられ兼ねない投稿をしていますね。

私の学生時代はバイトをせず、親からの仕送りのみで生活していたのもあり、献金額は仕送りの総額の10分の1。即ち、5千円から6千円の間で捧げていました。生活して行かなければならないので、その額でも当時の私からすれば、高すぎる額でした。

献金をすると、週報に名前が載りますよね?ある週に、私はちゃんと献金したにも関わらず、その翌週に私の名前は載りませんでした。単なる記載ミスなら良いのですが、ヨハンでは献金をしていないと、身近な筍長から「献金していないでしょ?」と突っ込まれます。その時は、そのように言われる事はないものの、その日を通しての私の筍長は、まるで欲に駆られた人食い狼のように機嫌が悪かったと、今も鮮明に覚えています。

本編の掲示板には、ウォーズマンさんが「神様は全てを満たしてくれない」という投稿がなされていますね。私も川島先生のお答えと同じように、「全てを満たす」とか「満たされる」という発想はありません。そうは教えられても、「そんな美味しい話はない」と退けていました。

ヨハンから教えられる事よりは、自らが聖書と向き合って、イエス様から教えられる事の方が重要ですよ。ヨハン信徒の付け焼き刃みたいな人当たりの良さや笑顔なんかより、自然と糧となっている事の方が、表面的なヨハンの方式よりも明るい輝きを放つ事が出来ます。表面的と言える新来者の人数なんかよりも、集まって来る大学生達がイキイキとして、日々の生活を送っている方が価値は大きいのです。

ドンキホーテさんへ色々と申し入れがなされていましたけど、今は進展を見せているのでしょうかね?ヨハンとしては昔と変わらず、今はただ笑ってごまかそうとするだけでは、お話になりません。私からも、ドンキホーテさんにはお時間を要する事があっても、ヨハンが若者を初めとする方々から愛される教会になるよう、陽の目を見られるように宜しくお願いしたいと思います。
 

年月を経て思うこと

 投稿者:脱兎  投稿日:2013年 3月10日(日)07時07分29秒 KD124208063218.ppp-bb.dion.ne.jp
  ウォーズマンさん、ご結婚おめでとうございます。
私もヨハン教会を学生のころに経験して失望した人間です。
その後人間不信から様々な人間関係でつまずき、教会にも通わなくなりました。
今でもキリストや聖書のことばを信じていて、個人的に祈ることはあるものの、非信者と結婚し、思想的にも国内のキリスト教団体とは相容れなくなり、今後も教会に行くことはないと思います。

ヨハンではそれなりに組織の一員として活動していて、個人的な望みが叶わなくても「神様がいるからいいや」と自分を慰めて学生生活はなおざりにしていました。
しかしそれは、ヨハンにとって操作しやすい人格を保つために教え込まれた思考だと思います。
叶えたい願いがあるなら、納得がいくまで神様に正直にぶつけて、真正面から取り組んだほうが信仰者らしいと今は思います。

唐突ですが川島教授の「聖書といえども歴史的制約をうけている」というお言葉が私はとても好きです。
考えてみれば私たちが享受している人権や福祉的な政府というものさえ、聖書の世界にはありません。
ヨハン教会の教えるような「神様さえいればそれでいい」というあきらめの境地のような余裕のあった人はいなかったのではないかと思います。むしろ必死で生きる術を身につけなければ淘汰されてしまう厳しい社会だったと思います。

ヨハンは「徹夜で祈り求めなさい」というわりには、都合の悪いことがあると「神様さえいれば感謝なんです」と矛盾した教育をします。
第3の道を考えるとか、熟慮するといったことは最終的に信徒の教会離れを生むので、避けようとします。
宗教は自己矛盾を孕みやすいものですが、ヨハンはそれを直そうとしないばかりか、ダブルスタンダードを巧みに用いて日本人信徒を操作しようとしていました。

自分の頭で考えられ、その上で神様に祈ることが当時の私にできたなら、多くのものを傷つけ失うことはなかったと思います。
ヨハンに心酔して考えることをやめてしまった自分は幼かったのです。
 
    (川島堅二) 冷静な自己分析、含蓄のある投稿をありがとうございました。同じ経験をしている人々の指針になる内容だと思いました。  

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